
オールドファンはいまだに彼を「日本で最も偉大なサッカー選手」と呼ぶ。
彼はボールを受けると、ぶんと足を振ってネットを揺らした。
彼が頭をどんとあわせると、ボールはゴールに吸い込まれた。
彼は日本代表で157点を獲った。
歴代1位。
彼は日本リーグで202点を獲った。
歴代1位。
彼はメキシコ五輪で得点王を獲得した。
世界大会で得点王をとったアジア人は現在までただ一人。
日本代表が決定力不足を指摘されるたびに、未だに彼の亡霊を追いかける事になる。
釜本邦茂。
日本が生んだ正真正銘ワールドクラスのストライカー。
子供のころはスポーツ少年団などなかった時代で、学校の中でサッカーをやっていただけだった。
今のようにサッカーがメジャーなスポーツではなかった時代。
実は野球をやりたかった気持ちが釜本少年には芽生えていた。
しかし、周りから「サッカーをやれば、オリンピックに出て海外に行ける」などと甘い言葉をかけられ、すっかりサッカー少年になっていく。
1961年(昭和36年)の6月。
山城高校2年生となっていた釜本少年は、デットマール・クラマーに出会い、大きな衝撃を受ける。
デットマール・クラマー、この時36歳。
24歳の若さで、西ドイツ西部地域協会の主任コーチとなり、デュイスブルクのシュポルトシューレを任された「指導の天才」クラマー。
ドイツサッカー協会の選任コーチで、日本サッカー協会の要請を受けて、64年東京オリンピックの日本代表強化にあたっていた。
釜本少年との出会いは関西地区の大学、社会人の優秀選手を集めての京都での練習会だった。
デットマール・クラマーは釜本少年の技術を試し、自ら見本を示して、正確な技を身につけるよう指導した。
体が小さく頭の毛の薄いクラマーがヘディングで返すボールの強さに驚き、一つひとつのプレーの正確さに釜本少年は感嘆。
クラマーに巡り会えたのは、釜本にとっての大きな幸運であった。
当時、期待の大型新人だった釜本少年について取材陣に訪ねらたクラマーはこう答えている。
「まだまだ体ができていないので動作のすべてが遅い。まるで北海道のクマのようだ。しかし、しっかり練習すれば良い選手になるよ」
第40回高校選手権。
そこには一見、ゆっくりに見える動きのようで、走り出せば速く、シュートのときに体のバランスがしっかりしている釜本少年がいた。
釜本は少年から青年となり早稲田大学に進学。
大柄な体格を活かしたプレイで活躍。
さらに釜本には「型」があった。
柔道の「型」
茶道の「型」
釜本の「型」はゴール前のそれであって、右45度からのシュートには、絶対の自信を持っていた。
そんな矢先にクラマーと再開を果たす。

そして‥クラマーは彼をバッサリこう切り捨てた。
「ミギ、インターナショナル。ヒダリ、ハイスクール」
釜本は頭に来て左足のシュート練習を黙々と開始する。
さらに西ドイツとブラジルに単独で短期留学し、素晴らしい吸収力と負けん気でめきめきと上達していった。
彼の型はプレーをせばめたのではないか?
それでは、試合で臨機応変に対応できないのではないか?
逆だった。
DFは彼を恐れた。
彼の右足を恐がるあまり左足のシュートを打たせる。
しかし、ハイスクールだった左足は右足にも引けを取らない精密で強烈なシュートを打つ事が可能となっていた。
さらに彼は驚くほど速く、鋭く、強くなっていた。
彼がボールにタッチするのは一瞬である。
その一瞬以外のすべての時間は、型を発揮するための下準備に使われ、彼はたびたび試合から消えた。
そして、味方のパスに姿を見せると後は単純明快な作業だ。
ボールをピタっと止めて、バシッとゴールに叩き込む。
得意な型に持ち込む力強さと周到さ、抜け目のなさ、つまり、それが釜本の真骨頂であった。
「釜本2世」と呼ばれた選手を見て本家はこう言った。
「何でもかんでもシュートしようとしとる。あれではあかん。」
1968年メキシコ・五輪、釜本は守備に加わるのは免除されパスコースを限定するだけで、常に前線に張っていた。
6試合で7得点は地元メキシコを沈めた2発を含む。

日本サッカー史に残る偉大なる銅メダルと得点王の座。
釜本には、当然海外からのオファーが殺到。
だが彼は世界に出ていかなかった。
60年代・・・時代はまだ、彼らにそれを許さなかった。
釜本はアマチュアだったがその徹底的な姿はプロであった。
彼のボストンバッグには、試合に必要な品がきちんと入っていていつも同じ順番、同じ時間に整理されている。
道具はぴかぴかに磨かれ、練習着にはアイロンが当てられた。
ヤンマーに入社し、仕事をこなしながらも一日に何回も秤に乗った。
それはいつも同じ数字を指していた。
500グラム多かった時には合羽を着込んでランニング、500グラム少なかった時には給料をはたいてステーキ。
ヤンマーは彼のおかげで、弱小から名門になり今ではセレッソ大阪と呼ばれるチームの母体となった。
引退試合は盛大に行われ、誰もが彼との別れを惜しんだ。
その中には、ブラジルの「神様」までもが含まれていた。

釜本が引退して時が過ぎ、何千人ものプロが登場した。
ワールドカップにも出場して当たり前になった。
釜本が成し得なかった海外リーグへ挑戦し、ビッグクラブでレギュラーを掴む選手も現れはじめている。
だが彼を越える日本人選手はいまだに一人も現れていないだろう。
小手先の技術やCM受けするルックスはあるが、決定力不足が叫ばれる昨今の日本FW。
かつて、
プロリーグもない、
ワールドカップにも出た事がない、
キレイに整備されていないグランドで日の丸を着けてこう叫んでいたFWがいた。
「ノーマークなら俺にパスせえ!
1人マークがいても俺にパスせえ!2人いても俺によこせ!」
そして‥ボールをピタっと止めてゴールマウスにバシッと叩き込みVサインを決めるとこう言い放つ。
「これはピースちゃうぞ。あと二点は取るって意味や。」
釜本邦茂。
才能と環境が一致して生まれた日本サッカー史上最高のストライカーである。
wikipediaデータ
Kunishige Kamamoto
釜本邦茂引退挨拶 Kamamoto Retirement greeting
「メキシコ × 日本 」ハイライト 1968.10
【関連する記事】